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景Location
臨済宗妙心寺派 長興院
織田・豊臣・徳川に仕えた開基 津田小平次秀政
津田秀政(つだひでまさ)天文15年(1546年)~寛永12年1月29日(1635年3月18日))は、戦国時代から江戸時代前期に生きた武将。通称は小平次。諱は秀政。号は興庵。妻は滝川一益の養女。
慶長11年(1606年)、津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。津田氏は、織田氏と同族であり、父の秀重とともに織田信長に仕え、滝川一益(妻の父)の旗下に加わる。
天正10年(1582年)松井田城を任されている。しかし、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると浪人。その後、信長の次男・信雄に仕え、信雄が没落すると、豊臣秀吉に馬廻として仕え、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となり。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍した。
元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号し茶人となった。寛永12年(1635年)に死去。享年91歳。戒名は長興院殿光岩道景大居士。この時、前述の「暘谷院」を、津田秀政の戒名にちなんで「長興院」と改めている。
長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院(信忠の乳母)が織田信忠(信長の長男)の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。
安国寺肩衝茶入と長興院とのかかわり
初め有明肩衝(ありあけかたつき)と呼ばれ豊臣秀吉の秘蔵品であったが、細川三斎が拝領。
しかし三斎は財政困難のためこれを手離し、安国寺恵慶が所持して安国寺肩衝と呼ばれるようになった。その後、この茶入は徳川家康のものとなり、関ヶ原の戦いに際し戦功があれば「一国をさずける」と言った徳川家康にたいし、津田秀政は「それよりも安国寺肩衝の茶入れを」と申し出た。その約束によって、徳川家康から大きな戦功のあった津田秀政に下賜された。
ある時、津田秀政の茶会に招かれた細川三斎は久し振りにこの茶入に出会って愛惜の念を押さえることができず、主人が水屋に立った隙を窺ってひそかにこれを懐に入れ、「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」の西行法師の歌を主人への伝言に残して辞去。そのためこの茶入には中山肩衝の別名がある。
細川三斎は帰宅後使いを遣り、黄金二百枚に時服一領並びに酒肴を添えて無礼を詫び改めて譲渡を願いました。津田秀政はその熱意に感じてこれを譲ることにしたが黄金を受け取ることは承知せず、結局細川三斎は一寺を建立、それが長興院となった。安国寺肩衝茶入の特色は、黒飴色釉の中の一面の白鼠色の斑紋である。
安国寺肩衝茶入は現在東京都世田谷区五島美術館に所蔵されている。
(『細川三斎年譜』『東照宮御実記付録』『茶湯古事談』『茶事秘録』『武家七徳』『大正名器鑑』)
津田秀政(つだひでまさ)天文15年(1546年)~寛永12年1月29日(1635年3月18日))は、戦国時代から江戸時代前期に生きた武将。通称は小平次。諱は秀政。号は興庵。妻は滝川一益の養女。
慶長11年(1606年)、津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。津田氏は、織田氏と同族であり、父の秀重とともに織田信長に仕え、滝川一益(妻の父)の旗下に加わる。
天正10年(1582年)松井田城を任されている。しかし、一益が賤ヶ岳の戦いにより没落すると浪人。その後、信長の次男・信雄に仕え、信雄が没落すると、豊臣秀吉に馬廻として仕え、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。
慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となり。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍した。
元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号し茶人となった。寛永12年(1635年)に死去。享年91歳。戒名は長興院殿光岩道景大居士。この時、前述の「暘谷院」を、津田秀政の戒名にちなんで「長興院」と改めている。
長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院(信忠の乳母)が織田信忠(信長の長男)の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。
安国寺肩衝茶入と長興院とのかかわり
初め有明肩衝(ありあけかたつき)と呼ばれ豊臣秀吉の秘蔵品であったが、細川三斎が拝領。
しかし三斎は財政困難のためこれを手離し、安国寺恵慶が所持して安国寺肩衝と呼ばれるようになった。その後、この茶入は徳川家康のものとなり、関ヶ原の戦いに際し戦功があれば「一国をさずける」と言った徳川家康にたいし、津田秀政は「それよりも安国寺肩衝の茶入れを」と申し出た。その約束によって、徳川家康から大きな戦功のあった津田秀政に下賜された。
ある時、津田秀政の茶会に招かれた細川三斎は久し振りにこの茶入に出会って愛惜の念を押さえることができず、主人が水屋に立った隙を窺ってひそかにこれを懐に入れ、「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」の西行法師の歌を主人への伝言に残して辞去。そのためこの茶入には中山肩衝の別名がある。
細川三斎は帰宅後使いを遣り、黄金二百枚に時服一領並びに酒肴を添えて無礼を詫び改めて譲渡を願いました。津田秀政はその熱意に感じてこれを譲ることにしたが黄金を受け取ることは承知せず、結局細川三斎は一寺を建立、それが長興院となった。安国寺肩衝茶入の特色は、黒飴色釉の中の一面の白鼠色の斑紋である。
安国寺肩衝茶入は現在東京都世田谷区五島美術館に所蔵されている。
(『細川三斎年譜』『東照宮御実記付録』『茶湯古事談』『茶事秘録』『武家七徳』『大正名器鑑』)
ロケーション詳細
施設名
臨済宗妙心寺派 長興院
住所
〒616-8035 京都市右京区花園妙心寺町63
利用可能人数
2~10名様
施設利用料
- 午前70,000円
- 午後70,000円
- 一日120,000円
お知らせ
お食事は精進料理のみの対応となります。
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